ネコソギラジカル感想

 現在九時。ちょうど九時。
 これから十時までを目標に、いっちょうネコソギラジカルの感想の続きを書いてみっかぁ!

 
 で、まずは前回にちょこっと書いた、今作で西尾維新は「記号化」の流れを否定した……の前ふりとして。
 ここ最近あちこちのブログを渡り歩いて、他の皆さんが書いたネコソギラジカルの感想などを読ませていただいていました。
 で、結構目に付いた感想が、「意外性がなく、無難なラストに落ち着いた」というものでした。どうやら戯言シリーズは「先の展開が読めない意外性」を求められていた読者が多かったのだと知って、ちょっと驚きました。
 私個人としては、戯言シリーズは特に意外性のあるストーリーではなかったのですよ。驚いたのは「クビキリサイクル」で「最強の名探偵が本当に物語に出てきた」点と、「クビシメロマンチスト」のいーちゃんについてぐらい。小技やキャラ性や人間関係で目くらましを掛けてはいるけれど、ストーリーラインとしては、どの作品もミステリーとしてそんなに奇を衒っていたわけではないと捉えていたのです。
 ではどこら辺が多くの人にとって「意外」だったのかな? と考えてみて思い当たったのが、同じくここ最近ブログで知った「萌えキャラ殺し」という西尾維新のニックネーム。
 なるほど、確かに西尾維新は普通の商業作品では殺さずに続編に登場させるような「萌えキャラ」を惜しみなく殺している。萌えキャラ=人気キャラ。人気キャラは死ぬはずがない、という最近の商業的風潮から見れば、魅力あるキャラは「死にそうにないキャラ」であり、それが殺されるとそれだけで「意外性」の演出になってしまうのかもな〜、などと思った次第なのです。
 事実、他のよく目に付く感想の一つが「誰も死なないので驚いた」でした。
 ※(コレに思い当たったとき、最初の感想日記(11月9日)に書いた「おそらくシリーズの「終わり」を意識しだしたのは、せいぜい「サイコロジカル」あたりからじゃないか」に絡められて面白いかも、と感じました。萌えキャラが死なない作品は、このサイコロジカルだけなんですよね。でもまぁ、コレに言及すると今日の日記は終わらなくなるので省きますw)
 ですが、振り返って「ネコソギラジカル」。本当にキャラは死ななかったのでしょうか。「萌えキャラ殺し」はなされなかったのでしょうか。





 西尾維新のキャラ造形に対してよく言われていることに「キャラの記号化」があります。何を以って「記号化」とするのか、言及しているサイトが少なかったので断言は出来ませんが、どうやら実際にキャラクターを登場させて人間性を描写するより先に「称号・あだ名」(一三階段や殺し名、「最悪」「策士」など)でイメージを植えつけたり、口ぐせを定めることによる明らかな差別化をはかったりしていることを指しているようです。
 私自身、そうした手法はそれは通常ある手法の一つなのだと思いつつも、「あざとい手段」「やりすぎだ」と思わないでもありませんでした。いや、正直、鼻についていました。
 (記号化とまでは思いませんでしたが。だって、それ以外の書き分けもちゃんとされてるし。でもそういった「あざとさ」に引っかかってしまう自分が悔しいのよw)
 しかし「ネコソギラジカル(下)」では、そのキャラたちの「記号」が次々と失われていきます。
 例えば「青色サヴァン」。彼女はその色と能力のほとんどを失う結末を迎えます。最後の台詞からは常人離れした「天然の最終ぶり」も、その天才性も、おかしな口調も読み取れません。
 また「零崎」人識は殺しをやめ、彼の異常性を際立たせていた記号を失います。それどころか別の名前さえもが明らかになり、軽妙なやり取りは記号とは離れたものとなります(例えば「傑作」。人識自身がこの巻でその言葉を口にする機会は、驚くほど少ないのです)。
 その他にも「闇口」崩子は暗殺術を失い、十三階段は解散し、最悪は馬脚を現し、最終は成長し「終」えていない子供だと知れます。多くのキャラクターが、イメージとして得ていた「記号」を失います。
 極めつけは主人公でしょう。彼は戯言遣いだとされながら、この巻では戯言を使わないのです。一里塚木の実との会話でさえも、それを避けます。
 変わらず記号を維持し続けるのは「最強」のみ。それでさえも一度は敗北し、またかつては最強ではなかったのだと既に知れています。到達点としての「最強」であり、キャラクターを形成する不可欠要素としての「最強」ではないのです。
 これはキャラを記号として捉えていたとするならば、キャラの死を意味します。しかし、物語の中でキャラクター達は死なず、生き続けています。いえ、「生きていると思うため」に記号を捨て去ったことになるのです。青色サヴァン然り、零崎人識然り、想影真心然り、いーちゃん然り。
 言い換えれば、ネコソギラジカルはキャラクター達が記号を失うための物語だったのだといえるかもしれません。作者が後書きで述べているように「どのキャラクター達も、成長はしたところで、決して本質的な変化はさせない」のならば、どのキャラも成長の結果に「記号」を失ったのだと取れるでしょう。そして、キャラクターの本質に「記号」は必要ではなかったのだと、そういえるのではないでしょうか。
 思えば記号を維持させ続けるということは、その記号部分を変質させられないということです。記号にこだわるあまり本質を見失うなという、そういった作者からの自戒であり、読者へのメッセージだったのかもしれません。
 もっと端的に言うと「萌え萌え言ってんじゃねーよ! テメーらいい加減に成長しろよ!」と(笑
 …………笑えないよ(涙



 最後の方がちょっと急ぎ足になってしまいましたが、そんなわけでこの「ネコソギラジカル」は作者自らが蔓延させた「キャラの記号化」の流れを、今回自ら否定してみせたような気がするのですが……どうでっしゃろ?
 まあ、飽くまで個人的見解の独り言なんだと断って逃げを打った上で、今日はこれにて。
 たったこれだけのことを書くのに1時間半もかかってしまうのさ〜(涙
 ではでは、おやすみなさい。