没ネタ

 「ただいまー」
 仕事を終えた午後6時。帰宅した私は靴を脱ぎ、玄関から室内に声を掛ける。
 2DKの狭いアパート。木造で壁が薄くて、声が届かない所なんて無い。誰かいるなら必ず耳に入るはず。でも、返事はない。
 わかってる。わかりきっている。
 あの人は、私の声に答えられないんだって。
 それでも私は必ず声を掛ける。毎日毎日、まるで一つの儀式のように。

 肩に提げたバッグを下ろし、エプロンをして冷蔵庫を開ける。
 そして再び、声を掛ける。
「今日はね、すき焼きにしようと思うの。確か好きだったでしょ、勝平さん」
 名前を呼ぶと、胸に表しがたい感情がこみ上げてくる。
 そして必死に自分に言い聞かせる。
 大丈夫、私はおかしくなんてなっていない。
 今、自分がどんなに滑稽なことをしているのか、ちゃんと理解してる。この光景を目にした人がどう考えるのか、ちゃんと想像できる。
 そう、きっと皆は青くなるだろう。私の頭を疑う人もいるだろう。お姉ちゃんなら頬を叩いて、『椋っ 何してるのよ!』と怒るかもしれない。朋也さんなら肩を叩いて、『辛いのはわかるけれど……それは間違ってるぞ』と励ますかもしれない。
 そして、どちらもこんなことは止めろと言うだろう。
 でも私は止められない。止めるわけにはいかない。
 だって、これは約束だから。
 死んでしまった勝平さんとの、二人だけの約束だったから。



 それは一ヶ月前、病院の一室で私と勝平さんが二人きりで行った秘め事だった。
「汝、その健やかなるときも、病めるときも……」
 消灯後、真っ暗で、月明かりだけが注ぐ病室で、私たちは式を挙げた。互いが新郎で、新婦で、そして牧師。だれにも見つからないように行った、ままごとのような結婚式。
 安いドレスを借りて、手作りのティアラをかぶり、おもちゃの指輪を手にし、パジャマ姿のままの勝平さんと将来を誓った。
 それはほんの少しでも希望を持とうとした、悲しいまでの儀式だった。
「……その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか。」
 牧師の声がそこで止まった。
 返す言葉は決まっている。「はい、誓います」。それ以外にあるはずが無い。
 だけど私は答えられなかった。のどが震えて声が出なくて、不意に涙が零れはじめた。
 何故なら、翌日は手術の日だった。
 最後の手術。時間的にも、体力的にも、勝平さんにとってもう二度と無い手術だった。
 成功率は非常に低い。
 それは絶望的と言っていいほどの数字で、二人を分かつ死はほんのすぐそこ……そんな気がして、誓う言葉が虚しく感じられて、口に出来なかった。
 でも、そうして泣きじゃくる私の涙を、勝平さんはそっと拭ってくれた。
 そしてすっかり痩せこけて、肉のなくなった頬で弱々しく微笑んだ。
「言い直すよ」
 拭った指に付いた滴。それを慈しむように手の平に手の平に握りこみ、代わりに人差し指を立てた。
「死が二人をわかっても、真心を尽くす変わらぬ愛を誓えますか?」
 まるで子供のような無邪気な表情。あどけない笑顔。その澄んだ瞳には、私が映っていた。
 私はただ頷くことしか出来ず、そして同じように小指を立て、絡ませた。
 ままごとのような、子供のような、無邪気で純粋な約束。だからこそ、破れない誓い。
 その夜、私達は一晩中話していた。未来のことを、明日からのことを。
「明日がどうなろうと、ボクは椋さんの傍にいたい。誰よりも近くにいたい。一つになれるほど近くにいて、ずっと椋さんを見守っていたい。それが、ボクの願いなんだ……」
 二人で一つ。離れず、共にずっと歩いていく将来のことを……



 手術は失敗した。
 麻酔から覚めた彼は、気落ちしたのか、それとも誓いに安心したのか、長くはなかった。
 わずか2週間で、この世を去った。



 私は冷蔵庫から、昨晩余らせたお肉を取り出し、解凍した。
 少し匂いがする。痛み始めてるのかもしれない。
 ま、いいか。どうせ食べるのは私だし……
 と考えて、ふと思いとどまる。
「勝平さんはどう思う?」
 また声に出してみる。
 これだって本来なら声に出さなくてもいいことだ。問い掛けも、答えも、私の内で全て終えるものだから。
 そっとお腹に手を触れてみる。布越しに緩やかに伝わってくる、血流と我が身の熱。
 悲しいことに、彼は子を残してはくれなかった。私が確かめたのはそんなことじゃなくて、単にお腹の具合。
 調子は悪くない、まだまだいける。余ってるお肉は多いし、今日の夕食はちょっと多めに作ろうか。
 ニンジンやネギを切り取った後に、お肉もとる。解凍が不十分な上に骨付きなので、力を込めないと削ぎ落とせない。
 元来料理が苦手なことも手伝って、時間はかかるし汗も出た。
 でもこれも愛する人のためだと思えば……楽しいのだろう、きっと。
 料理をお姉ちゃんから習っているときは楽しかった。いつか勝平さんに食べさせるんだって思っていたから。
 だけど、今のわたしは、もう楽しめない。
 もうイヤなのに、一人きりでこんな生活を続けるのはイヤなのに、何でまだ私は生きてるんだろう。

 じわり。
 迂闊にも、涙が浮かんできた。
 今の自分の姿を思うと、止まらなかった。
 イヤだ、イヤだ、もうイヤだ。
 気が狂ってしまいそう。
 私は誓った。ずっと一緒だって。ずっとずっと真心を尽くすって。
 勝平さんが好きだ。今でも好きだ。愛している。
 でももう、その重さに耐えられない。

 私はその場に膝をつき、顔を覆い、こみ上げてくる吐き気と嗚咽をこらえながら、ひっそりと泣いた。泣き続けた。


 …………。
 呼び鈴の音で、私は正気に戻った。
 ふと目をやると、キッチンの窓の向こう、ドアの横に人の影。
 窓はすりガラスになっていてはっきりとはわからない。だけど、その背格好には心当たりがあった。
 もう一度呼び鈴が鳴る。
 私は慌てて涙を拭くと、まな板の上のものを冷蔵庫にまとめて放り込んだ。エプロンのまま玄関に出る。
 そこには高校時代のクラスメートが立っていた。
 岡崎朋也。私の初恋の人であり、勝平さんの親友。そして……私と同じく、愛する人を失った人。
「よぉ、元気にしてたか」
 彼は片手を上げるとそういった。
 懐かしい。
 そんな気持ちが湧き上がる。
「はい。岡崎さんもお変わりないようですね」
 最後に会ったのは勝平さんの手術の直後で、それ以来は電話もしていなかった。その間の一ヶ月間で、ずいぶんと私の世界は様変わりをしてしまったように感じる。
 変わらない岡崎さんの笑顔が、私にはむしろ寂しかった。
 彼も愛する人を失っている。一時は全てを放り出し、荒れている時期もあった。しかしその後にこうして笑うことが出来るようになった。
 はたして私もそうなれるのだろうか。それとも、もう戻れないのだろうか。
「何か御用ですか?」
 自らが出したその声が、一線を引いてしまっているようで痛かった。
 岡崎さんは笑顔を引っ込め、真顔になると硬い声で言った。
「まあ、ね。ちょっと時間あるかな。相談したいことがある」



 岡崎さんに連れられてきたのは、10分ほど離れた場所にある喫茶店だった。
「なかなかいい所だろ。杏に教えてもらったんだ」
 岡崎さんに続いて、奥の一席に腰を下ろす。