メモ

 今とあるサイト(ttp://plaza.rakuten.co.jp/powerguard/diary/200610240000/)で、文系アプローチと理系アプローチの差異として「理系は世界を対象とし、文系は人間を対象とする」という内容を目にした。
 上手い言い回しだな、とは思ったのですが、その後に続く言葉を読んでがっかりしました。



 曰く、「人間は世界に内包される」。



 なんかなー、文系側としてはそう言われちゃうと納得いかないなー。
 実は「理系は〜文系は〜」という発言は何かしらの出版物からの引用であり、「人間は世界に〜」はそれに対するそのサイト管理者さんの認識の言葉なのですが、そのような誤解をされてしまうのならば、「理系は〜、文系は〜」もあまり上手い言い回しとは思えなくなってしまう。
 理系も文系も世界を対象としていることには違いはないと思うのです。ただ、その世界を認識するための立ち位置を「人間以外の現象」に置くのか「人間主体の認知」に置くのかの違いと思うのですよ。いわば体系化に際しての違い。
 「理系は世界を対象とする」というのは、学問を行う人間の背景(人格や文化的なもの)を考慮せずに(実験によって得た情報を結論へと結びつける過程には「データを恣意的に解釈した可能性が無いか」は論の中心となりえません)、現象を体系化する学問である事を示していると思うのです。そして「文系は人間を〜」というのは逆に結論として得られている現象を(小説のテキストやそれが引き起こした社会現象など。もちろんそれだけに限らず雷等の自然現象や素粒子などの物理学などの考察もあるでしょう)観測する人間の背景を考慮して(背景を考慮する行為自体を学問として)体系化する学問である事を示しているのではないでしょうか。
 もっとも最近ではシュレディンガーの猫の命題や構造主義(どちらも既に「最近」ではなく古いですが)のように、今までの理系文系アプローチに対する懐疑的立場からの、文系的要素を取り入れた理系アプローチ、理系的要素を取り入れた文系的アプローチが行われていたりするからややこしくなっているのかな、なんて。
 「学問は哲学のはしため」なんていわれていた時代があるように、世界を知ろうという欲求から学問は始まり、細分化しているのです。それらの学問を2分化しているだけの大きなくくりである「理系・文系」に、「世界は人間を内包する」なんて言葉に繋げるために「世界・人間」という言葉を利用されてはたまらんのです。と、ちょっと感情的に心情吐露。個人的に否定したくなる認識がまかり通ってほしく無いなぁ。



 同様にそのサイトさんでは文系のアプローチを「文系は、自分の持つ規準・価値観を基に解釈をする」と書いてあるんですけれど、それは文系理系問わず学問が前提にしている条件を考慮せずに、やはり一面的な視点で断ぜられているようなのですよね。物事を判ずるには人間はどうしても己の主観から逃れられない。それは理系でも文系でも同じであるはずで、しかしそこからどのように「世界」を理解していこうとするのかの「アプローチ」が違う、というのがそもそもの「理系と文系のアプローチの差」なのでは無いでしょうか。
 どちらの学問も「自分の持つ規準・価値観を基に解釈をする」のです。実験結果を元に仮定を組み立て、それを実証する。仮定を組み立てるのにも実証データを肯定材料として使うのも、ともに「自分の持つ規準・価値観を基に解釈をする」行為なのです。だからこそ、物理理論は時に大きな誤りが発見され、それまでの物理常識が覆されてしまう。それは古代や中世に限った話ではなく、現代でも変わっていないのです。最近ではビッグ・バンや遺伝子、ひも理論などが例でしょうか。実証する前の「仮定」を考え出すのは恣意的であり、実証データに基づいて定着した「仮定」が常識になり、その理論に基づいて何十年という歳月で何万人という人間が研究し、新しい機器や方法・他の理論によりその途中で実証・検証を繰り返し、そこに齟齬矛盾が生じてようやく「この理論は間違っているかもしれない」となったりすることもあるのです。
 数値という、一見すると恣意性の入る余地のないように見えてしまう情報が用いられているために、そして学問として数値の背景を論じない体系化がされているために見誤ってしまうだけです。
 理系も文系も、それぞれ「自分の持つ規準・価値観を基に解釈をする」ことによって行われている。しかし、学問として体系化する際にその「自分」を発散させるか集束させるか、どう組み込むかに違いがある。もし「文系は、自分の持つ規準・価値観を基に解釈をする」とするならば、それは「アプローチ」そのものの問題ではなく、「アプローチ」した後に結論をまとめ、学問として体系化する際の方法論の差異ではないでしょうか。
 また同じくこのサイトさんでは上記の言葉の説明の一環として
http://blog.livedoor.jp/sebastianus0884/archives/50768303.html
>自分なりの理論、自分なりの公式を形作り、自分の世界を構築する。
>構築した世界の卓越性。
>それが文系の優秀さを決めます。
 なんてのを引用しているんですが、これは「文系は、自分の持つ規準・価値観を基に解釈をする」とは違う事を述べているんですよね。構築と解釈は違う。ここら辺、ひょっとしたら理系では仮定内においても構築と解釈を同一とみなしているのかもしれませんが。同様に、アプローチの仕方を述べているのでもない。やはりここらへん、普段接しているモノの違いによって、言葉の受け取り方が違ってしまっているんでしょうね。


 とりあえず
 『その他の理系的アプローチとしては、「根拠を知りたがる」「普遍性・論理性を求める」「不明なことについては仮定をするが、あくまで仮定」などの態度が見られる。』
 とかいう文面についても凄まじく突っ込みたかったりもするのですが、やめておきます。あいあいやー。



 とまあ、結論はなく不満を愚だ愚だ述べるだけで終わらせてしまいますが、ちょっと文系である事を貶められているような気になったのでこんなん書いて見ました。
 数学は理系の言語学だ、とか言う言葉は非常に上手いな、なんて思ったりしたのですが。あう〜